「感受性」とは。
辞書的に言うと、外から受けた何らかの刺激を深く感じ取ったり心に受け止める能力のことを指します。
ゲームって実は感受性を豊かにするのにかなり魅力的なツールなんです。
「感受性とはもう少し具体的にどういったものなのか」
→この記事で書きます。
「ゲームでどういう風に感受性が身に付くのか」
→次の記事で取り扱います。他の媒体(映画や小説など)との違いについても取り上げます。
「ゲームで身に付く感受性の危険性は何か」
→最後の記事にてお話しします。俗に言われる「ゲームの影響による社会的犯罪」についても言及します。
この三部作を予定しています。
一つの記事にまとめると長くなりそうなので;;
では今回は具体的な感受性について。
これを考えるためにはまず、「思考」というものを考えてみましょう。
思考するためには何らかの基準が必要となります。
「走る」ということを考えるとき。
まずは「走る」という言葉の意味自体を知っていないといけません。
走ったらどうなるかを考えるとき。
どれくらいの速度で走るのか。
どれくらいの時間走るのか。
誰が走るのか。
どこで走るのか。
どんな格好で走るのか。
様々な状況についての情報が要ります。
さらに「速度」「時間」などの単語の意味も知っていないといけない。
他には「人によってどんな違いがあるのか(大人か子どもか、スポーツ選手か一般人か、男か女かなど)」。
砂地で走ることやコンクリートで走ることの違いについても知らないと。
風が吹くと?周りに人や動物は?障害物は?
そうなんです。
「走る」こと一つ取っても、それを思考するためには様々なことを知っていないといけませんね。
これが「基準」です。
その基準が正しいかどうかによっても思考は変わります。
例えば。
上り坂を走ったことがある人は平地を走るよりも辛いことはわかっています。
もしこの人が下り坂を走ったことがなかった場合。
下り坂を自転車でくだると楽だということが基準になり、「下り坂を走るのは楽だろう」という思考になりそうです。
実際に走ったときにその辛さを痛感するのです。
いや、もしかしたら実際に走ったのは「かなり距離が短い下り坂」だったかもしれません。
そうすると「下り坂は楽だ」という基準を強固に作る可能性もあります。
などといった具合にです。
(下り坂って膝への負担とか大きいんですけどね。)
生まれつきの能力や培ってきた人生が違うのですから人によってこの「基準」はバラバラ。
だからいろんな考え方の人がいるわけですね。
この「基準」は「知識」のことだけではありません。
走ることに辛かった思い出が強い人。
「走る」と聞いてぜーはーぜーはーしてるイメージが思い浮かぶでしょう。
走ることが楽しくてたまらない人。
「走る」と聞いてすぐは「長距離走」のマラソンの方が頭にこびりついて「短距離走」の存在を完全に忘れてしまっているかもしれません。
毎朝時間ギリギリに家を出る人。
「走る」=「遅刻スレスレ」だと考えるのではないでしょうか。
こういった、その事柄に関しての「イメージ」。
これが「感受性」によるものです。
上の例のように、感受性は思考に大いに影響します。
実は逆も然りです。
逆とは、「思考」が「感受性」に影響するということですね。
それはいったいどういう状況なのか。
一番わかりやすいのは「自己暗示」です。
転んで膝をうち手術するほどのケガを負ったとします。
膝をうったこと自体で「転ぶ」=「痛い」というイメージが身に付きます。
さらに手術ですごく痛い思いをした場合。
「手術」=「すごく痛い」だけでなく、「転ぶ」という行為自体が「すごく痛い」に結びつきます。
生きていれば「転ぶこと」や「手術」に関して思考する場面は何度も出てくるでしょう。
そのたびに「すごく痛い」が頭にちらつきます。
最初の1年ほどは「転ぶ」=「痛い」のイメージもそれほどではなかったのですが。
時が経つにつれて「転ぶ」ことが「恐怖」に変わっていきます。
小学校高学年だったので周りはみんなまだまだ無茶な遊び方をしている。
でも自分だけが「転ぶ」ことび恐怖して外であまり遊ばなくなりました。
それどころか常に下を見て歩くようになりました。
といった具合ですね。
はい。ぼく自身の経験談です。
後天性の精神疾患(代表的なのはうつ病や社会不安障害)なども思考が感受性に影響している例になります。
はじめに「もしかしたらあの人は今自分のことを話しているのではないか」と疑ってしまったが最後。
教室のどこかから笑い声が聞こえるたびに「自分が笑われている」と感受してしまう。
そして精神疾患になっていきます。
このように、「感受性」は「思考」と相互的に密接に関わっています。
実は、「思考」には「基準」が必要と言う話をしましたが、「感受性」にも「基準」が必要なんです。
その基準の一つは今話したように「思考」ですね。
思考と感受性はお互いに基準になり得ます。
とは言え、思考が感受性の基準になる場合はある程度限られてきます。
先ほどの自己暗示のような、あるイメージを強固にする働きが主ですし。
ぼくが取り上げたい感受性の基準は「仮想体験」と「五感による実体験」です。
このあたりで次の記事
「ゲームで身に付く「感受性」 その2「仮想体験と実体験」 」 に移りましょう。
松山勝弘(まつやままさひろ)
辞書的に言うと、外から受けた何らかの刺激を深く感じ取ったり心に受け止める能力のことを指します。
ゲームって実は感受性を豊かにするのにかなり魅力的なツールなんです。
「感受性とはもう少し具体的にどういったものなのか」
→この記事で書きます。
「ゲームでどういう風に感受性が身に付くのか」
→次の記事で取り扱います。他の媒体(映画や小説など)との違いについても取り上げます。
「ゲームで身に付く感受性の危険性は何か」
→最後の記事にてお話しします。俗に言われる「ゲームの影響による社会的犯罪」についても言及します。
この三部作を予定しています。
一つの記事にまとめると長くなりそうなので;;
では今回は具体的な感受性について。
これを考えるためにはまず、「思考」というものを考えてみましょう。
思考するためには何らかの基準が必要となります。
「走る」ということを考えるとき。
まずは「走る」という言葉の意味自体を知っていないといけません。
走ったらどうなるかを考えるとき。
どれくらいの速度で走るのか。
どれくらいの時間走るのか。
誰が走るのか。
どこで走るのか。
どんな格好で走るのか。
様々な状況についての情報が要ります。
さらに「速度」「時間」などの単語の意味も知っていないといけない。
他には「人によってどんな違いがあるのか(大人か子どもか、スポーツ選手か一般人か、男か女かなど)」。
砂地で走ることやコンクリートで走ることの違いについても知らないと。
風が吹くと?周りに人や動物は?障害物は?
そうなんです。
「走る」こと一つ取っても、それを思考するためには様々なことを知っていないといけませんね。
これが「基準」です。
その基準が正しいかどうかによっても思考は変わります。
例えば。
上り坂を走ったことがある人は平地を走るよりも辛いことはわかっています。
もしこの人が下り坂を走ったことがなかった場合。
下り坂を自転車でくだると楽だということが基準になり、「下り坂を走るのは楽だろう」という思考になりそうです。
実際に走ったときにその辛さを痛感するのです。
いや、もしかしたら実際に走ったのは「かなり距離が短い下り坂」だったかもしれません。
そうすると「下り坂は楽だ」という基準を強固に作る可能性もあります。
などといった具合にです。
(下り坂って膝への負担とか大きいんですけどね。)
生まれつきの能力や培ってきた人生が違うのですから人によってこの「基準」はバラバラ。
だからいろんな考え方の人がいるわけですね。
この「基準」は「知識」のことだけではありません。
走ることに辛かった思い出が強い人。
「走る」と聞いてぜーはーぜーはーしてるイメージが思い浮かぶでしょう。
走ることが楽しくてたまらない人。
「走る」と聞いてすぐは「長距離走」のマラソンの方が頭にこびりついて「短距離走」の存在を完全に忘れてしまっているかもしれません。
毎朝時間ギリギリに家を出る人。
「走る」=「遅刻スレスレ」だと考えるのではないでしょうか。
こういった、その事柄に関しての「イメージ」。
これが「感受性」によるものです。
上の例のように、感受性は思考に大いに影響します。
実は逆も然りです。
逆とは、「思考」が「感受性」に影響するということですね。
それはいったいどういう状況なのか。
一番わかりやすいのは「自己暗示」です。
転んで膝をうち手術するほどのケガを負ったとします。
膝をうったこと自体で「転ぶ」=「痛い」というイメージが身に付きます。
さらに手術ですごく痛い思いをした場合。
「手術」=「すごく痛い」だけでなく、「転ぶ」という行為自体が「すごく痛い」に結びつきます。
生きていれば「転ぶこと」や「手術」に関して思考する場面は何度も出てくるでしょう。
そのたびに「すごく痛い」が頭にちらつきます。
最初の1年ほどは「転ぶ」=「痛い」のイメージもそれほどではなかったのですが。
時が経つにつれて「転ぶ」ことが「恐怖」に変わっていきます。
小学校高学年だったので周りはみんなまだまだ無茶な遊び方をしている。
でも自分だけが「転ぶ」ことび恐怖して外であまり遊ばなくなりました。
それどころか常に下を見て歩くようになりました。
といった具合ですね。
はい。ぼく自身の経験談です。
後天性の精神疾患(代表的なのはうつ病や社会不安障害)なども思考が感受性に影響している例になります。
はじめに「もしかしたらあの人は今自分のことを話しているのではないか」と疑ってしまったが最後。
教室のどこかから笑い声が聞こえるたびに「自分が笑われている」と感受してしまう。
そして精神疾患になっていきます。
このように、「感受性」は「思考」と相互的に密接に関わっています。
実は、「思考」には「基準」が必要と言う話をしましたが、「感受性」にも「基準」が必要なんです。
その基準の一つは今話したように「思考」ですね。
思考と感受性はお互いに基準になり得ます。
とは言え、思考が感受性の基準になる場合はある程度限られてきます。
先ほどの自己暗示のような、あるイメージを強固にする働きが主ですし。
ぼくが取り上げたい感受性の基準は「仮想体験」と「五感による実体験」です。
このあたりで次の記事
「ゲームで身に付く「感受性」 その2「仮想体験と実体験」 」 に移りましょう。
松山勝弘(まつやままさひろ)
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