ゲームは脳力・能力をアップさせる至高のエンターテインメント ――― ゲームをすると馬鹿になるなんて言わせない

ゲームには世間が思いもよらない様々なメリットがあります。 おもしろい・たのしい、それだけじゃない。 ゲームが学びや脳力・能力アップの「ためになる」ことを知ってほしい。 さあ、ここからは「ゲームの時間」です。

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と続けてきました。
今回の「その3」で三部作は完です。



前回のラストに

実は、俗に言われる「ゲームの影響による社会的犯罪」は、ゲームによって引き起こされたということの前に、「感受性の乏しさから起こった」と考えるべきなのです。

と書きました。
ゲームで感受性強くできるなら感受性の乏しさから犯罪なんてしないんじゃないの?
という疑問の声が聞こえてきそうです。

ちなみに「社会的犯罪」は殺人とか誘拐とか、まあ「暴力的な行為全般」というくらいに定義しておきましょうか。



簡単に言うと、感受性が強くなる前にゲームの影響を悪い方向に受けた、ということなんです。



やられた側の痛みとかがイメージできないんですよ。
やったらどれくらいのマイナス(法律や社会的制裁など)が自分に返ってくるかとか。


特に小さいうちって謝れば許してもらえたり(下手すれば謝らなくても…)。
親が過保護だったり。
親が暴力的というのも危ないですね。真似するんで。



でもこれって、ゲームのせいではないですよね。
最終的なきっかけはゲームであっても、「ゲームのせいで」と落ち着くには早いです。


「2km走った」という事実と「走り終えたあとに疲れた」という事実を見て、「疲れたのは2km走ったからだ」と言っているんですよ?
ものすごくゆっくりなペースで走ったら2kmでは疲れないかもしれないですよね。
オリンピックに出るようなランナーならそこそこのペースでも2kmでは全然疲れないですよね。
実際に疲れた理由って、「体力がない」ことや「必死に(頑張って)走った」ことですよね。

要は、感受性に乏しい人なら小説を読もうが映画を観ようがニュース番組を見ようが話を聞こうが悪影響を受けて社会的犯罪を犯しうるんです。
まずはこのあたりをはっきりしておきたい。



さて。
その上で「ゲームがきっかけになり得る」という事実も変わりません。
なのでゲーム側にも対策が講じられています。
「対象年齢」という制度です。

今はゲームの対象年齢を決める審査もかなり厳しくなっています。
とは言え、対象年齢に達していないからそのゲームを買うことができない、とはいかないんですよね;;
タスポ制度のできたタバコとは違って、ゲームの方が年齢以下でも気軽に買いやすい。

ただ。
対象年齢の高いゲームは難易度もそれなりに高いです。
小学生低学年くらいでは手が付けられないものばかり。
高学年でもある程度ゲームをやりこんでいるヒトでなければクリアできるのは数少ないでしょう。


となってくると問題は二つだけ。
生まれつきの能力」と「育った環境」です。
生まれつきの能力と言うのは「感受性」を強めるのにどれくらい時間がかかるか、という話です。
育った環境に関しては先ほども簡単に言いましたし、そうでなくても理解に容易いでしょう。

これらの理由はゲームがどうこうではないです。
ゲームをどうこうするではどうしようもない。



犯罪者何てどの世代にも一定の割合いてるんですよ。
「何に影響を受けたか」によってその犯罪の内容が微妙に変わるだけです。

原因をすべて取り除くことなど不可能。
なら、原因はこれだとあーだこーだ言って無価値な安心感を得るより、自分が被害者にならないためのあらゆる対策を講じている方がよっぽど利益になります。



そういうわけですから、「ゲームは感受性を強くするための魅力的なツールである」という結論には変わりありません。
みなさんも感受性を身に付けたいなと思ったときはゲームをたくさんプレイしてみましょう。





松山勝弘(まつやままさひろ)

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前回

では、感受性と思考の関係性についてお話ししました。

今回は
感受性の基準「仮想体験」「五感による実体験」 と、
ゲームでどのようにして感受性が身に付くのか についてです。



感受性は外から受けた何らかの刺激を深く感じ取ったり心に受け止める能力です。

「外から受ける何らかの刺激」を今まさに受けるとき、この刺激に対する前情報が一切なかった場合はどうでしょうか。
「五感」で直接感じるしかないですよね。
そしてこの五感で直接感じた体験が、次回の刺激に対する前情報(基準)になります。
これが「五感による実体験」です。

実体験における感受。
これが次回の感受の基準になるというのは、このときと「比較できるから」です。
前のときより気温が最適で天気も良ければ清々しく感受したり、など。

「感受」というのは「五感による直接の実体験」と「前情報との比較」から成り立ちます。


では過去に「五感による実体験」がなければ「刺激」に対する前情報は得られないのか。
答はイエスです。

ただし!
この実体験は刺激に対してイコールである必要はないのです!
これは「仮想体験」によるたまものです。


例えば。
ここでは刺激が「山登り」です。
過去に山登りをしたという実体験がないので、通常であれば前情報はありません。
ここで、山登りがどういうものなのかというのをテレビのドキュメント番組を見て知ります。
山登りを「上り坂」や「上り階段」、「森林浴」などの実体験と結びつけます。

実体験と刺激がイコールではないことを確認できましたね。

これらの実体験によって山登りがリアルなイメージへと変わります。
この「リアルなイメージ」こそが仮想体験です。
そしてこの仮想体験が、刺激に対する前情報になるのです。
この仮想体験という前情報こそが、実際に山登りを行うことで感受するときの「基準」となります。


言葉にしたらなんだか面倒くさい感じですが、仮想体験と実体験は、基本的には無意識のうちに結びつきます。
人の脳はわざわざ「言葉」を使って思考しなくとも様々な情報を処理し続けているので。



ここまでお話して気付いた方がいらっしゃるかもしれませんが。
普通に考えると、「五感による実体験」を多く積んだ方が感受性は強まります。
よく旅行に行けとか海外を見てこいとか言われるのはこういうことですね。

まあ旅行に限らず、あらゆるスポーツをしたり、読書をしたり、映像を見たり、音楽を聴いたり、絵画を見たり、空間に出向いたり、乗り物に乗ったり、喧嘩したり、恋愛したり、、、、
と、いろいろな経験を積んだ方が良いのです。

ですがこれにはお金がかかりすぎますよね。
お金がかからない実体験のみに絞っても数が限られたり実行難易度が高そうです。



ということで「仮想体験」の出番になります。
仮想体験は「似たような実体験」さえあればいい。と、言いましたよね。
あれ?ということは?
結局「似たような実体験」がある確率を増やすためにも実体験を多く積まなくてはいけないのでは?
いえいえ。
もちろんそれも正解なのですが。

実は「仮想体験」と「仮想体験」を繋げることができるのです。

「刺激」と「今得た仮想体験」の間の距離が5離れているなら、その5の距離を「別の仮想体験」で埋めればいいわけです。


先ほどの山登りの例だと。
山登りの仮想体験を得る(1)。
上り坂の仮想体験を過去に得ている(2)。
上り坂は仮想体験なので、まだ実体験はないんですね。
そして、上り坂を理解するために使った実体験が「公園のすべり台を逆走して駆け上がったこと」です。
すべり台から上り坂という刺激の前情報を得ています。
そしてその上り坂の前情報から山登りの前情報を得るのに繋げました。
刺激と実体験との間の仮想体験は二つ、距離は2でしたね。


こんな具合に、間を別の仮想体験で埋めることで、「刺激」に対する前情報を得ることができるのです。

まあ「山登り」と「すべり台」だけを繋げようとしたら何だかイメージが遠い気もしますが。
実際には他にも山登りの「足場の悪さ」や「草木」や「昆虫」など様々な情報(仮想体験)に対して仮想体験や実体験を繋げていきますし。
間の「上り坂」も「すべり台」のみからイメージしたわけではないでしょう。
(通常は一つのみからイメージすることはあり得ません。脳の処理能力を考えたら当然ですが。)



感受性を強めるには様々な実体験や仮想体験を積むことです。
様々な体験を積むことで、「結びつける」という能力が鍛えられます。
瞬間的に結び付けられるようになったり、多くのことを結び付けられることが感受性を強めるのです。



そしてようやく!
「仮想体験」の宝庫、ゲームの話にたどり着きました笑

ゲームという仮想体験が小説よりも優れているのは、「リアルさ」でしょう。
ゲームは、文字や物語以外にも「音」や「映像」がついてきます。
小説よりも視覚を多く使う上、聴覚までついてくるのです。
「実体験」にま繋げる「仮想体験」をより多く提供してくれているのです。

そういう意味では映画やドラマも小説よりは優れています。
これらはCGを使っていたとしてもゲームよりもより現実に近いイメージを持てます。
この点はゲームと比べてメリットとなっています。

ですが、時間が圧倒的に短いのです。
細かい描写や物語の内容をぼかしているところが多くなります。
「あとはみなさんが自由に解釈してください」が多くなるということです。
ゲームでもぼかされていることは多々ありますが、映画やドラマほどではありません。

そして何より「世界観の制限がほとんどない」ことが重要です。
まあどのツールも単純な制限はほとんどないのですが。
例えば「魔法」という概念を一番描写しやすいツールはどれですかと聞かれたら、「ゲーム」でしょう。
「宇宙」はどうでしょうか?「地中」は?
「食べ物が車を手に持って戦う」のは?
ゲームでしょう。


つまり、「感受性を強める」という一点では、「ゲーム」が一番魅力的なツールになるのです。
生まれつき感受性の強い人や既に感受性を強めた人がより感受性を強めたいなら、ゲームよりワンランク上の映画や小説に手を出すと良いでしょう。
ワンランク上としたのは、より少ない情報から様々なことを結びつけないといけないから、です。



物ごころがつくころまでには様々な「五感による実体験」をしています。
これは脳に記憶されています。
つまるところ、物ごころがついたあとの刺激に対してはほとんどすべて前情報がある、基準があるのです。
なので最初に「刺激に対する前情報がない場合五感による実体験のみが可能」と言ったのは物ごころがつく前の話になります。

物ごころがついてからはすべての感受に基準があります。
が、結びつける能力が乏しいのです。
実体験の絶対量が乏しいのですから。
なので、さらなる実体験や仮想体験を通して結びつける能力を鍛えなければ、感受性は強まりません。


実は、俗に言われる「ゲームの影響による社会的犯罪」は、ゲームによって引き起こされたということの前に、「感受性の乏しさから起こった」と考えるべきなのです。


あれ?
ゲームによって感受性を強くできるって言ったよね?
なのに感受性が乏しいからゲームに影響されて社会的犯罪起こすの?
ゲームで感受性強くできるなら感受性の乏しさから犯罪なんてしないんじゃないの?


えへへ。
ここで次回「ブログタイトル(※次の記事が出来上がり次第この位置にリンクを貼ります)」に持ち越します笑





・・・話の流れには沿いませんが少しだけ補足を。



感受性は外から受けた何らかの刺激を深く感じ取ったり心に受け止める能力です。

この刺激を「山登り」としましたが、これは「山登りを実際に行うこと」です。
前情報などなくても、山登りを実際に行うことで「五感によって感受する」と言いました。
つまり、一見は「山登りを実際に行うこと」で「感受する」と捉えられます。

この山登りの前情報を得るのに仮想体験や実体験の話を続けてきました。
が、ここで言う「前情報を得る」という行為自体も「感受する」ことなのです。


「山登りを実際に行うことによって感受する」のは「刺激の実体験から感受すること」です。

「前情報を得る」のは「山登りという言葉を聞いたときに感受すること」です。
あ、言葉で聞かなくても映像で見るとか文字を読むとかでも同じですよ。


感受性は外から受けた何らかの刺激を深く感じ取ったり心に受け止める能力です。

この「外から受けた何らかの刺激」が、実体験である必要はないということですね。
言葉を聞いただけでも感受します。
これは「仮想体験」です。

そう。
「仮想体験をする」ということはイコール「感受している」ことにもなるのです。

「山登りを実際に行うこと」を「刺激」と最初に例えてしまったので、仮想体験は感受にならず感受の手助けをするだけのものだという誤解を生まぬよう、補足させていただきました。





松山勝弘(まつやままさひろ)
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